猫と暮らすようになって10年近くになる。大きさ、肌触り、声、目、距離感、体つきの曲線、筋肉。猫と暮らすということは、このような均整・均衡を保つ奇跡の存在に触れるということだと思う。どんな瞬間も違和感がないのだ。
「cat」タグアーカイブ
見えるもの、感じること
次男猫を見送って3ヶ月。彼がいないということはどういうことなのかについて、色々おもいを巡らせている。思い出は更新されない。それは悲しいことなのだろうか?不思議なことに、彼が持っていた性格はその後残りの3匹の猫たちが分担して引き継いでいるように感じることしばしばある。
そう考えると、次男もそれは私が見ていた・見えていた現象に過ぎず、私の勝手な思いが投影された世界でのできごとであったようにも思われる。
彼は私と過ごした9年間にどんな思いでいただろうか。何か通じるものはあったのだろうか。異次元の幻想が交わっただけだったのだろうか。
存在の境界線
この夏、次男猫を見送った。8才だった。
肺の持病が急速に悪化し、何の心の準備もないままに私を残して逝ってしまった。
別れの前は心が乱れ辛くて受け入れ難かったけれども、からだが冷たくなったも彼は私の中に同じように生きていて、その状態の違いについてうまく説明がつかなったし、今も同じ気持ちでいる。つまり、私にとって彼は息をしていてもしていなくても生きている。生化学的には変化が起こったのだろうけれども、私に対する作用は全く変わらずこの瞬間にも起きている。そのことについてずっと考えている。
闘いの目的その後
以前、闘いの目的という文章を書いた。
ウクライナへのロシア侵攻という事件が発生し、またそのことについて考えることが多い。
いずれにせよ、随分むかし、小学生のときに既に「どっちもどっち論」を採ることはなく今に至る。
そんな本質を常に考え続けている。
過程と実在
無事に博士論文の審査も修了して、学位(理学)が取得できることになった。粗い情報による意思決定の枠組みについて検討し、新たな考え方を示した。
学部時代に経済学部から哲学科に学士入学をして科学哲学・論理学などを学んだ。哲学専攻での卒業論文はホワイトヘッドの「過程と実在」のをテーマにしたもので、今回の博士論文もその頃からの問題意識の続きで、何十年もずっと追いかけている。ものごとが変化する、というはどういうことなのか。何かが起こる、というのはどういうことなのか。
博士論文を執筆するなかで、いま・ここ、のstateの捉え方についてかなり考えが深まり、自分なりの世界の記述ができるようになってきた。次は実装(計算)に取り組むべく様相論理についていろいろ調べている。人生の最後まででなにが、どのくらいまでわかるのか、わからないのか。
Multi-colored eye
うちの次男猫はもともと左右の目の色が少し違って、左目はコパー、右目は琥珀だった。最近ふと気づいたら、左目がコパーになって右目は翡翠に近づいている。加齢とともにだんだん目の色が薄くなるのが普通らしいので、次第に翡翠に近づいていくのかも知れない。
オッドアイというのは人間にもあって、デヴィッド・ボウイとかキーファー・サザーランドなどは左右の目の色が違うそうだ。ミステリアスに見えるけれども、本人の見え方はどうなんだろう。
猫には、色は人間よりも粗く見えているらしいけれども、 人間には見えない波長の光が見えているらしいし、動くものを捉える目の能力も遥かに優れていて、人間には連続して見えるものが、猫にはコマ送りに見えたりしているらしい。
それでも一緒にいるとなにかお互いの波長を感じることがあって、共鳴というか共振しているように感覚を共有していることがあって、そんな時はお互いに(多分)生きてると感じているのだろう。
「空気」の構造
全く予期していなかった新型ウィルスによる感染拡大を、意思決定と安全保障の観点から考えている。
と書き始めてからこのブログを開くことなく数ヶ月経ってしまった。
その頃何を思ってこのタイトルを掲げ、書き始めたのか実は全く思い出せない。
あの頃は世界の成り立ちについてのイメージが刻一刻と变化していて、それを書き留めたかった。不可逆な大きなうねりに飲み込まれるのだろうか、という畏れもあった。
しばらくたって、また再び日常が戻ろうとしている。
考えはまとまるのかも知れないし、忘れてしまうだけなのかも知れない。
Miss Jane Maple
ミス・マープルは、セント・メアリ・ミード村でつましく暮らしている老女で、人間に対する鋭い洞察でスコットランドヤードも一目おく推理力を発揮する。クリスティの小説を読んでいた子どもの頃からミス・マープルが好きで、今も好きだ。忙しくたくさんの人に会いたくさんの体験をし、稼ぎ、買い物をしたからと言って世界に対する洞察力が磨かれるわけではない。猫と暮らしながら、ミス・マープルのようになれたらと願う。