猫と暮らすようになって10年近くになる。大きさ、肌触り、声、目、距離感、体つきの曲線、筋肉。猫と暮らすということは、このような均整・均衡を保つ奇跡の存在に触れるということだと思う。どんな瞬間も違和感がないのだ。
見えるもの、感じること
次男猫を見送って3ヶ月。彼がいないということはどういうことなのかについて、色々おもいを巡らせている。思い出は更新されない。それは悲しいことなのだろうか?不思議なことに、彼が持っていた性格はその後残りの3匹の猫たちが分担して引き継いでいるように感じることしばしばある。
そう考えると、次男もそれは私が見ていた・見えていた現象に過ぎず、私の勝手な思いが投影された世界でのできごとであったようにも思われる。
彼は私と過ごした9年間にどんな思いでいただろうか。何か通じるものはあったのだろうか。異次元の幻想が交わっただけだったのだろうか。
いま、ここ
流れている時間のなかで、何か意味を求めるには、いま・ここ、について、どんなふうに表現するかを決めなければならない。どんなふうに表現するかを決めて表された、いま・ここ、は、過去に時間をとめてきめた表現方法の世界のなかでの座標軸だから、方法をきめる、ということは既にいま・ここについて知っている、ということになる。それでも、音や色やことばや数字や動きなどで表現したいと思う。生きている間に、もしかしたら誰かと、いま・ここ、を共有できたような気がする一瞬があるかもしれないとおもうからだろう。
存在の境界線
この夏、次男猫を見送った。8才だった。
肺の持病が急速に悪化し、何の心の準備もないままに私を残して逝ってしまった。
別れの前は心が乱れ辛くて受け入れ難かったけれども、からだが冷たくなったも彼は私の中に同じように生きていて、その状態の違いについてうまく説明がつかなったし、今も同じ気持ちでいる。つまり、私にとって彼は息をしていてもしていなくても生きている。生化学的には変化が起こったのだろうけれども、私に対する作用は全く変わらずこの瞬間にも起きている。そのことについてずっと考えている。
自分の境界線
この世に生を受けた赤ちゃんはいつから自己を認識するんだろうか。自分と世界の境目はどうやって認識するようにプログラムされているんだろうか。他の人々が自分と世界の境目をどのように認識しているかといういことについて、人はどうやってわかることができるんだろうか。
何かが起こる、変化する、状態が遷移する、ということは、境目を超えたイベントが起こるということなんだろう。
ずっとそんなことを考えながら、世界とのinteractionを一瞬でも感じとることができたような気がした音楽やファッションや化粧品に没頭してみたりした。
手探りすればするほど世界はわからず、結局胎内にいた時に最も宇宙について知っていたのであって、そこから世界に出てから死ぬまで必死に手探りを続けるのが人生なのかもしれないとも思う。
闘いの目的その後
以前、闘いの目的という文章を書いた。
ウクライナへのロシア侵攻という事件が発生し、またそのことについて考えることが多い。
いずれにせよ、随分むかし、小学生のときに既に「どっちもどっち論」を採ることはなく今に至る。
そんな本質を常に考え続けている。
Resolution
3年半の博士後期課程を修了して学位(理学)を授与された。博士論文をまとめ上げる作業の間に自分が生き返った感じがしてうれしかった。学位論文のテーマはNovel Methodologies of Modeling and Analyzing Conflict Resolution with Coarse Information というもので、紛争解決の数理モデルに「粗い」情報での分析、という考え方を導入したもの。第1次分析や、交渉が煮詰まった収束場面を想定している。考えを進める中で、conflict resolutionのresolutionと情報の解像度、という時のresolutionは、つまるところ同じだという気づきがあった。
見えればほぐす方法を考えることができる。
ただし、ほぐした結果、より多くの人を幸せにするかどうかという問題はまた別なのである。
過程と実在
無事に博士論文の審査も修了して、学位(理学)が取得できることになった。粗い情報による意思決定の枠組みについて検討し、新たな考え方を示した。
学部時代に経済学部から哲学科に学士入学をして科学哲学・論理学などを学んだ。哲学専攻での卒業論文はホワイトヘッドの「過程と実在」のをテーマにしたもので、今回の博士論文もその頃からの問題意識の続きで、何十年もずっと追いかけている。ものごとが変化する、というはどういうことなのか。何かが起こる、というのはどういうことなのか。
博士論文を執筆するなかで、いま・ここ、のstateの捉え方についてかなり考えが深まり、自分なりの世界の記述ができるようになってきた。次は実装(計算)に取り組むべく様相論理についていろいろ調べている。人生の最後まででなにが、どのくらいまでわかるのか、わからないのか。