この夏、次男猫を見送った。8才だった。
肺の持病が急速に悪化し、何の心の準備もないままに私を残して逝ってしまった。
別れの前は心が乱れ辛くて受け入れ難かったけれども、からだが冷たくなったも彼は私の中に同じように生きていて、その状態の違いについてうまく説明がつかなったし、今も同じ気持ちでいる。つまり、私にとって彼は息をしていてもしていなくても生きている。生化学的には変化が起こったのだろうけれども、私に対する作用は全く変わらずこの瞬間にも起きている。そのことについてずっと考えている。

この夏、次男猫を見送った。8才だった。
肺の持病が急速に悪化し、何の心の準備もないままに私を残して逝ってしまった。
別れの前は心が乱れ辛くて受け入れ難かったけれども、からだが冷たくなったも彼は私の中に同じように生きていて、その状態の違いについてうまく説明がつかなったし、今も同じ気持ちでいる。つまり、私にとって彼は息をしていてもしていなくても生きている。生化学的には変化が起こったのだろうけれども、私に対する作用は全く変わらずこの瞬間にも起きている。そのことについてずっと考えている。
この世に生を受けた赤ちゃんはいつから自己を認識するんだろうか。自分と世界の境目はどうやって認識するようにプログラムされているんだろうか。他の人々が自分と世界の境目をどのように認識しているかといういことについて、人はどうやってわかることができるんだろうか。
何かが起こる、変化する、状態が遷移する、ということは、境目を超えたイベントが起こるということなんだろう。
ずっとそんなことを考えながら、世界とのinteractionを一瞬でも感じとることができたような気がした音楽やファッションや化粧品に没頭してみたりした。
手探りすればするほど世界はわからず、結局胎内にいた時に最も宇宙について知っていたのであって、そこから世界に出てから死ぬまで必死に手探りを続けるのが人生なのかもしれないとも思う。
以前、闘いの目的という文章を書いた。
ウクライナへのロシア侵攻という事件が発生し、またそのことについて考えることが多い。
いずれにせよ、随分むかし、小学生のときに既に「どっちもどっち論」を採ることはなく今に至る。
そんな本質を常に考え続けている。
3年半の博士後期課程を修了して学位(理学)を授与された。博士論文をまとめ上げる作業の間に自分が生き返った感じがしてうれしかった。学位論文のテーマはNovel Methodologies of Modeling and Analyzing Conflict Resolution with Coarse Information というもので、紛争解決の数理モデルに「粗い」情報での分析、という考え方を導入したもの。第1次分析や、交渉が煮詰まった収束場面を想定している。考えを進める中で、conflict resolutionのresolutionと情報の解像度、という時のresolutionは、つまるところ同じだという気づきがあった。
見えればほぐす方法を考えることができる。
ただし、ほぐした結果、より多くの人を幸せにするかどうかという問題はまた別なのである。
無事に博士論文の審査も修了して、学位(理学)が取得できることになった。粗い情報による意思決定の枠組みについて検討し、新たな考え方を示した。
学部時代に経済学部から哲学科に学士入学をして科学哲学・論理学などを学んだ。哲学専攻での卒業論文はホワイトヘッドの「過程と実在」のをテーマにしたもので、今回の博士論文もその頃からの問題意識の続きで、何十年もずっと追いかけている。ものごとが変化する、というはどういうことなのか。何かが起こる、というのはどういうことなのか。
博士論文を執筆するなかで、いま・ここ、のstateの捉え方についてかなり考えが深まり、自分なりの世界の記述ができるようになってきた。次は実装(計算)に取り組むべく様相論理についていろいろ調べている。人生の最後まででなにが、どのくらいまでわかるのか、わからないのか。
うちの次男猫はもともと左右の目の色が少し違って、左目はコパー、右目は琥珀だった。最近ふと気づいたら、左目がコパーになって右目は翡翠に近づいている。加齢とともにだんだん目の色が薄くなるのが普通らしいので、次第に翡翠に近づいていくのかも知れない。
オッドアイというのは人間にもあって、デヴィッド・ボウイとかキーファー・サザーランドなどは左右の目の色が違うそうだ。ミステリアスに見えるけれども、本人の見え方はどうなんだろう。
猫には、色は人間よりも粗く見えているらしいけれども、 人間には見えない波長の光が見えているらしいし、動くものを捉える目の能力も遥かに優れていて、人間には連続して見えるものが、猫にはコマ送りに見えたりしているらしい。
それでも一緒にいるとなにかお互いの波長を感じることがあって、共鳴というか共振しているように感覚を共有していることがあって、そんな時はお互いに(多分)生きてると感じているのだろう。
私の研究は実証ではなくて、現実問題について色々条件をつけて単純化したモデルに対し、十分に検証されたと評価できる基本理論を適用、説明できない点があれば基本理論の拡張を行ったりモデル化に工夫をしたりしつつ、一般化を試みるもの。研究発表などでその方法について説明し主体の合理性に言及する時、本論に入る前にそこに疑義が唱えられて困惑することがしばしばある。もちろん人間は完全に合理的な選択だけをしながら生きているわけではないけれど、だからと言って合理性を初期条件におくことがそんなに著しく妥当性を欠くことはないはずなので、それほど「一言言わずにはいられない」人が多い性格の問題なんだろうなあと思ったりしている。ちなみに自身は甚だしく直感型・右脳型と認識している。
全く予期していなかった新型ウィルスによる感染拡大を、意思決定と安全保障の観点から考えている。
と書き始めてからこのブログを開くことなく数ヶ月経ってしまった。
その頃何を思ってこのタイトルを掲げ、書き始めたのか実は全く思い出せない。
あの頃は世界の成り立ちについてのイメージが刻一刻と变化していて、それを書き留めたかった。不可逆な大きなうねりに飲み込まれるのだろうか、という畏れもあった。
しばらくたって、また再び日常が戻ろうとしている。
考えはまとまるのかも知れないし、忘れてしまうだけなのかも知れない。