闘いの目的

ラグビーワールドカップの日本ースコットランド戦での日本の勝利を学会参加のため滞在していた中国山東省の煙台市で知った。ラグビーは全く不案内だが、日本列島を襲っていた台風のためにこの試合が中止になることがあれば、対戦相手のスコットランドは予選リーグの敗退が決まるので、そんなことがあれば法的手段に出るの意思表示もあり、試合以外の面で緊張が高まっていたとのこと。大英帝国からの参加国である誇り高きスコットランドが予選敗退など考えられない、しかも相手が日本だなんて、という心情もよく理解できる。

結果的には前日には台風は去り、試合は予定通り行われた。大変素晴らしい内容の闘いの末、日本が勝利したのだ。試合が決行されたことで禍根を残すことがなくなり、今後ランキングが近いスコットランドと日本は好敵手であり続けるだろう。

小学校低学年の頃ホームルームの時間に「AさんとBさんがけんかをしました。話し合いで解決しようとしたのですが、どうしても解決が難しいとわかりました。さて、どうすればいいと思いますか?」という問いに対する答えを考える、というのがあった。先生の期待はおそらく「みんなで事情を聞き、解決を手伝う」というようなことであったと思う。それはわかっていたけれど、私は挙手をして意見を述べたのだ。「もう十分話し合いはしたなら、みんなの見ている前で取っ組み合いをしてケリをつけたらどうですか?」。その後ルトウィックの「戦争にチャンスを与えよ」を知るに至り、ほらやっぱり、と思ったりしている。国際紛争における大国や国連の責任が取れない形での介入やその結果が常に心に引っかかっていたからだ。

争いは争いのケリがつかない限り争いが続くのだ。そして、1人の人間の生きられる時間は限られている以上、あるところでケリをつけて新たな環境で幸せに生きられるようにるするのが自然な姿ではないか。

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