過程と実在

無事に博士論文の審査も修了して、学位(理学)が取得できることになった。粗い情報による意思決定の枠組みについて検討し、新たな考え方を示した。

学部時代に経済学部から哲学科に学士入学をして科学哲学・論理学などを学んだ。哲学専攻での卒業論文はホワイトヘッドの「過程と実在」のをテーマにしたもので、今回の博士論文もその頃からの問題意識の続きで、何十年もずっと追いかけている。ものごとが変化する、というはどういうことなのか。何かが起こる、というのはどういうことなのか。

博士論文を執筆するなかで、いま・ここ、のstateの捉え方についてかなり考えが深まり、自分なりの世界の記述ができるようになってきた。次は実装(計算)に取り組むべく様相論理についていろいろ調べている。人生の最後まででなにが、どのくらいまでわかるのか、わからないのか。

合理性について Rationality

私の研究は実証ではなくて、現実問題について色々条件をつけて単純化したモデルに対し、十分に検証されたと評価できる基本理論を適用、説明できない点があれば基本理論の拡張を行ったりモデル化に工夫をしたりしつつ、一般化を試みるもの。研究発表などでその方法について説明し主体の合理性に言及する時、本論に入る前にそこに疑義が唱えられて困惑することがしばしばある。もちろん人間は完全に合理的な選択だけをしながら生きているわけではないけれど、だからと言って合理性を初期条件におくことがそんなに著しく妥当性を欠くことはないはずなので、それほど「一言言わずにはいられない」人が多い性格の問題なんだろうなあと思ったりしている。ちなみに自身は甚だしく直感型・右脳型と認識している。

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Dialogue

我が家に新しい家族を迎えて3週間。4匹となった猫社会にもリバランシングが行われていて、みな自らのポジショニング規定を検討中。それを観察するのに忙しくて論文が進まないような気がする。新入りの姫は類稀なるコミュニケーション能力を発揮して各々のsphereのバリアを崩している。空気読まないことでコードがリセットされるのを目の当たりにしている。

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闘いの目的

ラグビーワールドカップの日本ースコットランド戦での日本の勝利を学会参加のため滞在していた中国山東省の煙台市で知った。ラグビーは全く不案内だが、日本列島を襲っていた台風のためにこの試合が中止になることがあれば、対戦相手のスコットランドは予選リーグの敗退が決まるので、そんなことがあれば法的手段に出るの意思表示もあり、試合以外の面で緊張が高まっていたとのこと。大英帝国からの参加国である誇り高きスコットランドが予選敗退など考えられない、しかも相手が日本だなんて、という心情もよく理解できる。

結果的には前日には台風は去り、試合は予定通り行われた。大変素晴らしい内容の闘いの末、日本が勝利したのだ。試合が決行されたことで禍根を残すことがなくなり、今後ランキングが近いスコットランドと日本は好敵手であり続けるだろう。

小学校低学年の頃ホームルームの時間に「AさんとBさんがけんかをしました。話し合いで解決しようとしたのですが、どうしても解決が難しいとわかりました。さて、どうすればいいと思いますか?」という問いに対する答えを考える、というのがあった。先生の期待はおそらく「みんなで事情を聞き、解決を手伝う」というようなことであったと思う。それはわかっていたけれど、私は挙手をして意見を述べたのだ。「もう十分話し合いはしたなら、みんなの見ている前で取っ組み合いをしてケリをつけたらどうですか?」。その後ルトウィックの「戦争にチャンスを与えよ」を知るに至り、ほらやっぱり、と思ったりしている。国際紛争における大国や国連の責任が取れない形での介入やその結果が常に心に引っかかっていたからだ。

争いは争いのケリがつかない限り争いが続くのだ。そして、1人の人間の生きられる時間は限られている以上、あるところでケリをつけて新たな環境で幸せに生きられるようにるするのが自然な姿ではないか。

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地政学と距離

私が取り組んでいるのは、紛争解決のための意思決定数理モデルです。今のところ用いている枠組みは、効用を序数的に扱うため人間の直感に近く、また「状態」への選好を分析するので「状態の遷移」という考え方で物事の不可逆な生起も記述することができるGMCR(Graph Model for Conflict Resolution)という手法です。分析対象は国家間の紛争で、実際の事例としてはキューバ危機に適用して検討しています。

「紛争解決のための意思決定数理モデル」なので、国際関係論的フィールドと数学やシステム的なフィールドの両方の関わることになり、いつもこの2フィールド各々において何か関心テーマを考えているような取り組み方です。ちなみに今日は、国際関係論的には地政学なパースペクティブを切り口、数理モデル的には選好を距離で捉える、ということに興味がある、と書いたところで、地政学と(数学的)距離、これはまた何とinspiring な!とちょっとうれしくなりました。いい思いつきです。総合してまとめた論文が書きたいと思います。

写真はつい数日前まで入院していた病室からの眺めです。この病室からよろよろと這い出て予定していた学会発表を行ったのですが、やはり東京タワーにパワーをもらうことが出来たからだと思っています。シンボルは大事。

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合理性について Rationality

私の研究は実証ではなくて、現実問題について色々条件をつけて単純化したモデルに対し、十分に検証されたと評価できる基本理論を適用、説明できない点があれば基本理論の拡張を行ったりモデル化に工夫をしたりしつつ、一般化を試みるもの。研究発表などでその方法について説明し主体の合理性に言及する時、本論に入る前にそこに疑義が唱えられて困惑することがしばしばある。もちろん人間は完全に合理的な選択だけをしながら生きているわけではないけれど、だからと言って合理性を初期条件におくことがそんなに著しく妥当性を欠くことはないはずなので、それほど「一言言わずにはいられない」人が多い性格の問題なんだろうなあと思ったりしている。

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Academia

Learned Economics and Philosophy and earned BAs, then researched diplomacy and strategy at a higher institution, and earned MBA at a business school, I am never quite sure what kind of role that academia played in my journey.

Yet, I am holding an admiration for the world of academia and a tranquil life there. If I give the reason by myself, I am a keen seeker after the truth.

All the activities in life, working hard, eating, sleeping, meeting people, keeping friendship, laughing, loving someone, enjoying champagne, trying to find some laws from raindrop dancing must be means to seek or reach the truth.

I have been giving lectures titled ‘Media, Dialogue and Rhetoric’ at Sophia University in Tokyo for over 10 years. Preparation for the lecture each year is a fixed-point observation opportunity of my intellectual, mental, physical status for ‘seeking truth’.

My journey continues. I am making researches on real diplomacy and strategy to which I pay particularly close attention these years. To produce an article for publication in a scholarly journal from my unique perspective as a non-academic researcher and earn PhD is a milestone in the journey at this moment.