AIツールが進化して、課題整理の壁打ちの相手をしてもらう頻度が増えた。
褒められたり気づかなかった点を指摘されたり、ありえない勘違い・思い込みに唖然とするなど。でも実は知らなかった情報や枠組みを教えてもらうことはほとんど全くなく、自分のアンテナや異なるバリューネットワークからの価値抽出能力は案外素晴らしいことに気づいた。
AIツールで回答がおかしくても、そっかその話説明してなかったごめん・・と部下zくらいの感覚にはなっていて腹は立たない。猫飼いなら誰でもわかるはずだ。
見てきたような嘘をしゃぁしゃぁとつくことも結構あるけれど、それはこちらの課題設定や情報の与え方が悪かったんだろうと思い、改善するなど。(猫は誠実なので見てきたような嘘はつかない)
AIツールへの指示の与え方を工夫するなかで、それでは指示を与える側の自分とは何なんだろう?何で構成されているのだろう??としばし考えた。
いろいろ分析する中で、Aiならどんなにとんちんかんでも的外れでも、がっかりすることはあっても傷つくことはない、ということに気づいた。甘いミルクティーを飲んでいまいましさを解消しプロンプトを変えれば良いだけのことだ。
ここ3年の間に2匹の猫と父を失い、落胆する知らせも多く、ロジックを粛々と修正すれば、プロンプトを修正すれば、試験結果に基づいて設計変更すれば、少なくとも何かがわかり、何かを進めることができるのでは、という考えに生きる望みを託している気がしている。
ロジック修正の他には掃除と料理。生身の人間(動物)は不可逆な物理的時間を過ごしている。それ(不可逆性)について自分で少しでも何かポジティブと考えられる活動をしている時、深く救われる感覚があるような気がするのだろう。シーシュポスの石ころがしに過ぎない、取るに足らないなにかであっても、何か意味を見出したいと願っていることが、生きていることなのかも知れない。