父母キアラナターシャを送った心の傷はまだ癒えておらず、傷を癒すというより、癒して元気に活きる理由があるのかどうかが実は全くわからないことが問題だと気づいた。他者には害を及ぼさない、迷惑をかけないように生きなければならない。残る愛猫であるリオンとソフィの猫生について、充分な栄養や睡眠、衛生、医療を与える環境を作る責任もある。そのための経済活動を行う必要はあるだろう。自分についてはどうだろうか?

能力が足りないためにとんでもなく縮約されてしまっている世界の中で、会社を経営したり大学で教えたり論文を書いたりしている。そんな哀しすぎる現実にどう向き合う勇気を持てるというのか。自分が自分を許せない現実の中でどう自分の存在を許せるんだろう。加えて、加齢というのはまさに縮約そのものなのではないのか。ここ2年くらいずっとそんな問いをしては下を向いていたと思う。

そんな毎日を送っている中、冬に投稿したいくつかのjournalの査読コメントが届いた。どれもとても厳しいものだ。私は心がとても弱いので、コメントを開封するまで数ヶ月を要したことを告白しよう。そして、結論からいうと、この査読コメントが今、私が生き続けるraison d’êtreとなっている。
私は職業的な研究者ではないので、研究の最新動向に触れるためのリソースも限定されており、研究コミュニティへの貢献も乏しいし生産性も低いだろう。しかし、少なくとも、私の拙い研究成果について、何人もの世界のどこかの研究者が時間を割いて私の論文を読み研究の改善のためのコメントを寄せてくれている。そこにこそ生きて活動するための充分な理由があるのではないか。

加齢は縮約であるのか。もしそうであるなら、合理的な縮約の道筋は描けるのだろうか。新たな問=raison d’êtreを得た。










