見えるもの、感じること

次男猫を見送って3ヶ月。彼がいないということはどういうことなのかについて、色々おもいを巡らせている。思い出は更新されない。それは悲しいことなのだろうか?不思議なことに、彼が持っていた性格はその後残りの3匹の猫たちが分担して引き継いでいるように感じることしばしばある。

そう考えると、次男もそれは私が見ていた・見えていた現象に過ぎず、私の勝手な思いが投影された世界でのできごとであったようにも思われる。

彼は私と過ごした9年間にどんな思いでいただろうか。何か通じるものはあったのだろうか。異次元の幻想が交わっただけだったのだろうか。

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自分の境界線

この世に生を受けた赤ちゃんはいつから自己を認識するんだろうか。自分と世界の境目はどうやって認識するようにプログラムされているんだろうか。他の人々が自分と世界の境目をどのように認識しているかといういことについて、人はどうやってわかることができるんだろうか。

何かが起こる、変化する、状態が遷移する、ということは、境目を超えたイベントが起こるということなんだろう。

ずっとそんなことを考えながら、世界とのinteractionを一瞬でも感じとることができたような気がした音楽やファッションや化粧品に没頭してみたりした。

手探りすればするほど世界はわからず、結局胎内にいた時に最も宇宙について知っていたのであって、そこから世界に出てから死ぬまで必死に手探りを続けるのが人生なのかもしれないとも思う。

闘いの目的その後

以前、闘いの目的という文章を書いた。

ウクライナへのロシア侵攻という事件が発生し、またそのことについて考えることが多い。

いずれにせよ、随分むかし、小学生のときに既に「どっちもどっち論」を採ることはなく今に至る。

そんな本質を常に考え続けている。

Multi-colored eye

うちの次男猫はもともと左右の目の色が少し違って、左目はコパー、右目は琥珀だった。最近ふと気づいたら、左目がコパーになって右目は翡翠に近づいている。加齢とともにだんだん目の色が薄くなるのが普通らしいので、次第に翡翠に近づいていくのかも知れない。

オッドアイというのは人間にもあって、デヴィッド・ボウイとかキーファー・サザーランドなどは左右の目の色が違うそうだ。ミステリアスに見えるけれども、本人の見え方はどうなんだろう。

猫には、色は人間よりも粗く見えているらしいけれども、 人間には見えない波長の光が見えているらしいし、動くものを捉える目の能力も遥かに優れていて、人間には連続して見えるものが、猫にはコマ送りに見えたりしているらしい。

それでも一緒にいるとなにかお互いの波長を感じることがあって、共鳴というか共振しているように感覚を共有していることがあって、そんな時はお互いに(多分)生きてると感じているのだろう。

Miss Jane Maple

ミス・マープルは、セント・メアリ・ミード村でつましく暮らしている老女で、人間に対する鋭い洞察でスコットランドヤードも一目おく推理力を発揮する。クリスティの小説を読んでいた子どもの頃からミス・マープルが好きで、今も好きだ。忙しくたくさんの人に会いたくさんの体験をし、稼ぎ、買い物をしたからと言って世界に対する洞察力が磨かれるわけではない。猫と暮らしながら、ミス・マープルのようになれたらと願う。

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闘いの目的

ラグビーワールドカップの日本ースコットランド戦での日本の勝利を学会参加のため滞在していた中国山東省の煙台市で知った。ラグビーは全く不案内だが、日本列島を襲っていた台風のためにこの試合が中止になることがあれば、対戦相手のスコットランドは予選リーグの敗退が決まるので、そんなことがあれば法的手段に出るの意思表示もあり、試合以外の面で緊張が高まっていたとのこと。大英帝国からの参加国である誇り高きスコットランドが予選敗退など考えられない、しかも相手が日本だなんて、という心情もよく理解できる。

結果的には前日には台風は去り、試合は予定通り行われた。大変素晴らしい内容の闘いの末、日本が勝利したのだ。試合が決行されたことで禍根を残すことがなくなり、今後ランキングが近いスコットランドと日本は好敵手であり続けるだろう。

小学校低学年の頃ホームルームの時間に「AさんとBさんがけんかをしました。話し合いで解決しようとしたのですが、どうしても解決が難しいとわかりました。さて、どうすればいいと思いますか?」という問いに対する答えを考える、というのがあった。先生の期待はおそらく「みんなで事情を聞き、解決を手伝う」というようなことであったと思う。それはわかっていたけれど、私は挙手をして意見を述べたのだ。「もう十分話し合いはしたなら、みんなの見ている前で取っ組み合いをしてケリをつけたらどうですか?」。その後ルトウィックの「戦争にチャンスを与えよ」を知るに至り、ほらやっぱり、と思ったりしている。国際紛争における大国や国連の責任が取れない形での介入やその結果が常に心に引っかかっていたからだ。

争いは争いのケリがつかない限り争いが続くのだ。そして、1人の人間の生きられる時間は限られている以上、あるところでケリをつけて新たな環境で幸せに生きられるようにるするのが自然な姿ではないか。

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Academia

Learned Economics and Philosophy and earned BAs, then researched diplomacy and strategy at a higher institution, and earned MBA at a business school, I am never quite sure what kind of role that academia played in my journey.

Yet, I am holding an admiration for the world of academia and a tranquil life there. If I give the reason by myself, I am a keen seeker after the truth.

All the activities in life, working hard, eating, sleeping, meeting people, keeping friendship, laughing, loving someone, enjoying champagne, trying to find some laws from raindrop dancing must be means to seek or reach the truth.

I have been giving lectures titled ‘Media, Dialogue and Rhetoric’ at Sophia University in Tokyo for over 10 years. Preparation for the lecture each year is a fixed-point observation opportunity of my intellectual, mental, physical status for ‘seeking truth’.

My journey continues. I am making researches on real diplomacy and strategy to which I pay particularly close attention these years. To produce an article for publication in a scholarly journal from my unique perspective as a non-academic researcher and earn PhD is a milestone in the journey at this moment.